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winnyでもいいから・・・

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 ひさびさに著作権問題です。ITMediaに『「Winnyでいいから読んでほしい」? 現役世代の本音と著作権保護期間問題』という記事を見つけました。なんかすごいヘッダーですね。で読んでみると、現役クリエータの本音がそのタイトルだったと。

 想像するに、自分の作品の著作権うんぬんよりも、まず世に出たい、自分の作品をみんなにしってもらうほうが現役クリエータには重要事だということですね。名前を知ってもらえないと、いくら作品を作っても売れないですから、まずは作品を買ってもらえるレベルになりたいと。

 記事によると

 ある大手出版社の編集者はこう見る。「日本に漫画家は4300人くらいいるらしい。だがその中で、作品が売れて2次利用されるなど、著作権を考慮するような立場の人は200人いるかいないかだろう」。さらに「保護期間の延長を口に出して恥ずかしくない作家など、ほんの数人でしょう」

 編集者はこうも言う。「わたしが普段付き合いのある作家はみんな、『Winnyでもいいから読んでもらえるほうがうれしい』という人ばかりです」

(中略)

 現役世代はこの問題について語りたがらない。「口に出すと恥ずかしい」上、いま広く誰かに読んでほしいと思って身を削る漫画家の創作活動には、必ずしも関係がない。死して名を残す優れた作品を世に放つ意志と、死後の著作権が20年伸びること──イコールで結ぶには何か微妙なズレがあるようだ。

 著作権保護期間をどうすれば、クリエイターがやる気になり、文化が発展につながるのか――現役クリエイターを交えた議論が今後、必要になってきそうだ。

とあります。漫画家だけでなく、クリエータというのは記事にあるように「身を削って」作品を世に出しています。そこに死後の著作権なんて関係ないと思うのは全然不思議ではない・・・、ってかそれが普通の考え方じゃないでしょうか!?。

 とはいえ、著作権の問題は、彼らも声をあげていかないといけない問題です。ある意味、選挙と同じですね。選挙の場合、特に20代の投票率がよくない。彼らにとって選挙は身近にある問題じゃないんです。だから投票に行かないし、結果がどうなろうと「自分には関係ない」となる訳です。

 クリエータの場合、選挙に対する若者の反応とは違うとは思いますが、これからを支える人たちがその問題に取り組まないといけないことは同じと思います。

 私自身としては延長反対のスタンスです。延長賛成派の意見を聞いても全然心に響かないんです。延長することのメリットが見えず、デメリットだけが見えてくる。著作権問題は作成者と利用者の全てに絡んでくる問題です。もっと活発な議論が出ないと、力を持っている「権利団体」の意向だけで決まってしまうという危惧を持っています。
 さてさて、どうなることやら。

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コメント (5)

谷村 正剛:

意外に、クリエータ周辺のビジネスモデルって、「買切り制」に近いんじゃないでしょうかね? 何だかんだいっても結局は事務手続きや販促をディストリビュータに任せっ切りにできるとしたら、自分はお金が入るのを待つだけでいい。出来高払いなんかよりもずっと生活が安定します。とならば、そんなに著作権をやかましくいう理由はありませんね。

なお、「買切り制」を予想している理由は、クリエータが自分自身で積極的にディストリビュートまで手がける例が皆無だからです。クリエータであることに没してしまい、ビジネスマンになろうとしない。外の世界を見ようとしない(これじゃサラリーマンと同じっすね)。だとすると、「クリエイターがやる気になり、文化が発展につながる」ことを発見したとして、それを実行したらますますクリエータは著作権に無関心になる可能性があります。

aqua:

谷村さん、コメントありがとうございます。

 確かにおっしゃるように「買い切り制」という側面もありますね。まだまだ力がないクリエータにとって、作ったものに対して最低限の利益が発生するわけですから、不安定な歩合制よりも安心できますから。
 そういう人からすると「著作権???」となるのは、非常にわかりやすい言動ですね。

谷村 正剛:

こんばんは&お返事ありがとうございます。

少し違った側面で、今度はクリエータの心理から、なぜ彼らが発言できないのかを探ってみました。

例の記事では、クリエータ(記事では主に漫画家)の心理について、一見矛盾した記述があります。「保護期間の延長を口に出して恥ずかしくない作家など、ほんの数人」のくだりからは、「自分の作品について、何かしら自信がない」ことが読みとれます。ところが、その後に「Winnyでもいいから読んでもらえるほうがうれしい」とあります。最初の記述とは逆ですね。何がこのような葛藤を引き起こしているのでしょうか? (個人的には、この問題こそ記事にして欲しかったんだけど... 日本の記事はこういう尻切れトンボが多くて、読んでガッカリします)

まず、「読んで欲しい」と言う心理については、「仮にもクリエータなんだから、作品を読まれてナンボだろ」と言う意識が原因と考えてよいでしょう。これが成り立つためには、読者との間で2つの共感が必要です。すなわち、作品内容にかかる共感(「作品を読まれて」)と、その作品をそのクリエータが作らなければならなかった理由に(「クリエータなんだから」)かかる共感。いずれも、クリエータからすれば外向的な心理ですね。

では、「読んで欲しくない」心理はどうなのか? 例えば、最初のコメントのように、「買切り制」の問題もあるでしょう。いまひとつは、「漫画家」という職業故の問題です。仕事をしている間は、あまり身体を動かしませんよね。経験上、身体を動かさないままでいると、心理的に内向性が強まるようです。逆に、エキササイズやダンス、声楽(特にオペラ)など、極度に疲労しない範囲で運動をすると気分が上向いてきます。大声でイヤなことを叫んでスッキリするなんてのもありますよね。職業病なのかも知れません。加えて、編集者から記事にある質問をぶつけられた時、漫画家の方は原稿を描いていた時のことを思い出さざるを得ないでしょう。フラッシュバックがありそうです。

「読んで欲しくない」心理が「漫画家」という職業上避けられないとしたら、現役クリエータに直撃してみてもあまり本質的な答えは期待できません。ここで無理矢理根ほり葉ほり聞き出してしまうと、却って内向性が強くなってしまうでしょう。ヘタをすれば、鬱に陥ってしまうかも知れません。これについては、むしろ「初心」をそのまま開かせることができる、「クリエータの卵」の方がより正確にモノをいえるのではないでしょうか? 次善策として、クリエータさんにしばらく休暇をあげて、リラックスしたころに聞いてみるという方法でも良さそうです。あくまで、「漫画家」であることが大事であればですが。例えばダンサーさんだったら、もっとストレートに話をしても大丈夫だと思います。

aqua:

「自分の作品に自信がないから読んで欲しくない」というのはちょっと違うのではないかと思います。
「自信がないけど読んで欲しいなぁ。でも、批判はしてほしくないよなぁ」なんじゃないかと。
ネットのそこらかしこに素人の小説が公開されています。オリジナルからいわゆるファンフィクションまで、雑多な文章が存在しています。また同人誌も一部画像ファイルとしてアップされているのも見かけます。このようなサイトにはかなりの確率で掲示板があります。そこで読者の感想を求めているのですが、褒め言葉が書かれるを期待しているように思えます。批判的な書き込みはされたくない。
このような心理はアマチュアでもプロでも同じなんじゃないでしょうか。プロというのは、対価を得ている訳ですから、どのような批判をされても(誹謗中傷でなければ)それに甘んじなければいけない。でもそういう話は聞きたくないと。

谷村 正剛:

「どのような批判をされても...それに甘んじなければいけない」とありますが、それ以前の問題として、そもそも「批判をする、批判を受ける機会」は本当に存在するのでしょうか? なぜかというと、批判というのは思いつきや第一印象が重要な要素で、時間が経つと忘れてしまうのです。

極端な例は、ライブパフォーマンス。一時期自分も関わっていたのですが、ライブパフォーマンスでは文字通り批判もライブ、リアルタイムでやってきます。海外だと、変な演技をしたらその場でブーイングが飛んできたり、逆に名演技なら「ブラボー!!」と誰かしら叫びますね。で、こうなると役者さんもオーディエンスの受け取り方に会わせて演技を選ぶことができます。これは、批判がうまく機能している例ですね。

とならば、逆に批判が空回りしているならば、クリエータとオーディエンスの間に物理的や時間的な隔たりがあるためと予想できます。皮肉なことに、作品がメディアやネットの力でより自由に流通できるようになればなるほど、これらの隔たりは広がってしまいます。直観的ですが、ネットも含めてメディアは不特定多数への発散は得意だけど、ある特定の人物への集中は苦手なのかも知れません。多分、メディアの中に入った途端、作品のコンテキストは配信上のコストと見なされ、どんどん削られてしまうためなのでしょう。それが原因で「批判」を避けているのであれば、論理的には「多くの人に読んで欲しい」と矛盾します。葛藤が生じても仕方ありません。

実は、比較的メディアに近い作品であっても、コンテキストを大事にすることにより不必要な「批判」をかわした例はあります。例えば、Charles Dodgsonが、子供たちに宛てた詩やお話。彼はよく、Christchurch Collegeに遊びに来た子供たちに、自分たちを主人公にした詩やお話を作っていました。もちろん、今ではそれらの一部を全集で読めます。が、それによる評価とは全く別に、詩やお話を書いてもらった子供たちは、みんなそれを自分の宝物にしていたそうです。世間とは別に、クリエータをしっかり支えてくれるオーディエンスを集めたという例です。もし、いま技術や制度がひたすら不特定多数のみへ向かっているとしたら、こんな例はもう二度と見られないかも知れません。

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2007年07月27日 22:28に投稿されたエントリーのページです。

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